常用規範 norma vernácula
 ブラジルのポルトガル語(PB)がヨーロッパのポルトガル語(PB)と比較すると口語と文語のあいだにみられる乖離の程度がおおきいことは周知の事実である。またPBの口語に焦点を当てると格式張った話し言葉と日常的な話し言葉との差が相当に開いていることが感じられる。
 こうしたPBにおける使用域の異なる異質な二重の言語体系の存在は1980年代から社会言語学的な研究対象としてさかんに扱われるようになっている。これらの体系はそれぞれ標準規範(norma culta)と常用規範(norma vernácula) と呼ばれ、前者はPBの使用者ならば誰もが正しいと認めるような規範で、教養のある中流以上の人々が改まった場面で用いることばの規範である(*)。«português padrão» あるいは «português standard» と呼ばれることもある。
 いっぽう後者の常用規範は原語にある «vernáculo» の言語純粋主義的な評価を敢えて控えた日本語訳である。これはブラジルの人々が日常的に家族や友人などの間でもちいる常用口語の規範であり、標準規範を踏まえた標準口語とはことなる独自の文法的規則にしたがっている。この種の口語を «português familiar» あるいは «português popular» という語で呼ぶこともあるが、後者はむしろ «português urbano» に対する «português rural» という意味も含まれ、教育程度の低い話者を意識した文脈で用いられることが多い。
 常用規範を使用すべき場面で標準規範を持ち出せば場違いとなり不都合である。またその逆も同様で標準規範を用いる場面で常用規範にしたがった言語活動を行えば卑俗のそしりを免れない。
 たとえば街角のパン屋で標準規範にもとづき «Dê-me dois pães.» といえば、学校文法どおりの文語を音読したものであるから情報は伝わっても場面にそぐわず奇異な印象を与える。このような場合は日常規範にもとづき «Me dá dois pão.» が場にふさわしいという。そのいっぽうで常用口語ではきわめてふつうの «Vam'bora.» という言い方はフォーマルな場面において避け «Vamos embora» と言わねばならないとされている。
 このように常用口語を伝統的な学校文法の観点から「誤ったもの」とみなしていたかつての考え方を否定し、日常的話し言葉には学校文法とは異なる文法が存在することを主張する考え方が一般的になった。こうした現状肯定が常用規範の根底にある。
 しかしながら常用規範については、無強勢人称代名詞の位置、語末の-s, -r の脱落、独自の命令法、人称代名詞・3人称・斜格形に te を用いる、vir の不定詞を vim とする、指示詞 isto の系列の消失、など特徴的な文法事象が散発的に指摘されてはいるが、全体を記述するにはいっそう体系的な研究が待たれる。

(*) Mattos e Silva. (2004). Ensaio para uma sócio-história do português brasileiro.Parábola Editorial. SP.


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