正書法 Ortografia
 ある言語の音を固有の文字を用いて正しく表記する手段を正書法と呼ぶ。正字法ともいう。ポルトガル語の現行の正書法はおおむね音韻的であるが、音と文字との対応は一対一とまではいかない。ともあれ現代の正書法にたどり着くまでにこの二世紀を通じて多くの努力が費やされて来きた。

ポルトガル語の正書法
正書法規則集1911
 現代ポルトガル語の正書法は19世紀末に語源的な綴りを一掃し音韻的原則にもとづく統一的正書法を提唱したゴンサルヴェス・ヴィアーナ(A. R. Gonçalves Viana) の『正書法提要』(Bases da ortografia portuguesa, 1885) に遡る。この提案を受け公文書、教育で用いるあらたな正書法を定めた『正書法規則集 』 Formulário Ortográfico (1911) がポルトガルで公布される。これにより語源的正書法が改められ(ph=>f, th=>t, mm=>m, nn=>n, ch/k/=>c, qu, etc.)、ほぼ現代の正書法と同様の音韻的正書法が定められた。しかし当時ほぼ同時進行でブラジルでも正書法の改革が進んでおり、ブラジル文学アカデミーが1907年より新正書法を採択していた。しかしこれを無視する形でポルトガルにおいて正書法規則集が定められたことから、以後100年以上に及ぶ正書法統一をめぐる混乱が生じた。ポルトガルの正書法規則集(1911)はブラジルでは専門家の強い反対もあり採択されなかった。

正書法協定(1931)
当時のポルトガル語圏はヨーロッパのポルトガルとこれを宗主国とするアジアアフリカ植民地とブラジルであった。おおむね1911年の正書法規則を踏襲した上で必要な修正を加えた初めての協定である。

■ポルトガル語正書法語彙表(1940)
 先にポルトガルで公布された『正書法規則集』(1911) にもとづいた協定が1931年にポルトガル・ブラジル間で締結され、ポルトガルで『ポルトガル語正書法語彙集 Vocabulário Ortográfico da Língua Portuguesa (1940)』が公にされた。そのいっぽうでブラジル独自の『ポルトガル語簡易正書法語彙集 Pequeno Vocabulário Ortográfico da Língua Portuguesa (1943)』が独自の『正書法規則集』(1943) とともに刊行された。

正書法協定(1945)
 両国であらわされた語彙集における差異を排除する目的で両国アカデミーの交渉の末『正書法協定 Acordo ortográfico (1945)』が締結されるが、この協定はポルトガルでは実行に移されたものの、ブラジルでは発効せず1943年の独自の『正書法規則集』にもとづいたまま1990年の協定を経て2009年まで推移する。
 いっぽう1970年代はじめには1945年の協定を一国のみで実施した結果生じた不一致のうち若干が調整された。これは後ろから二番目の音節に/e/, /o/ があるときに付していた曲アクセントを削除するなど、戦後日本でポルトガル語を学習した人々には記憶に新しい修正である( êle=> ele, êste=>este, fôsse=>fosse, etc.)。

■正書法協定(1990)
 ブラジルのサルネイ大統領が1986年にポルトガル語圏諸国を訪問する際に新興アフリカ諸国ならびにポルトガルでおこなった提案に端を発した正書法協定である。時のポルトガル大統領はマリオ・ソアーレスであった。
 同協定は1990年にポルトガル、ブラジルをはじめ、アンゴラ、カーボ・ヴェルデ、ギニア・ビサウ、モサンビーク、サントメー・イ・プリンシペの代表が署名した。その後ポルトガル、ブラジル両国において賛否両論の大きな議論が持ち上がった。そのいっぽうで、1994年からの発効のためには、協定署名国すべてにおいて協定書の批准を必要としていた。しかし協定を批准したのは1996年当時ポルトガル、ブラジル、カーボヴェルデの3国にとどまり、その他の国では一向に動きがなかった。2004年には東ティモールが新正書法協定に参加するのを認めるいっぽう、協定書の手直しを行い、3か国による協定批准のみで新正書法を発効させる修正協定書が結ばれた。かくして当初の予定より大幅に遅れたが、2008年には修正協定書がアンゴラ、モサンビーク以外のポルトガル語圏で批准され、2009年よりポルトガル、ブラジル、カーボヴェルデにおいて1990年の協定書が発効した。移行期間はブラジルで3年間、ポルトガルで6年間と定められ2015年には移行が完了する。アンゴラ、モサンビークの両国では新正書法協定はいまだ批准されていない。

■正書法協定(1990)の内容
 歴史的経緯からあきらかなように、1990年の協定は原理的に1945年の協定を実施するものであるが、内容は1911年の正書法規則集に遡る。PEの正書法からすると大部分が現行正書法の内容を追認したものであり、PBの正書法では1945年の内容で見送られたものが実施に移される。そのいっぽうでPEでは音韻的な価値のあるいわゆる「黙字のc, p」が削除されることになり、音韻的に意味のある文字が正書法上で黙字(mudo)、すなわち「無音(mudo)」とみなされるという矛盾をはらんでいる。しかしながらアフリカ、ブラジル、ポルトガルの地域的ヴァリアントの音声表記を含むポルトガル語語彙表(VOP=Vocabulário ortográfico português) が公開されている現在、問題はそれほど大きくない。ただしいわゆる「黙字のc,p」であるかどうかの判断が音価として/p/ ,/k/を持つかどうかということが基準であるため、いままで同一だった recepção という語がこの「統一」によりreceção | recepção になるという矛盾も生じている。同様に aspecto が aspeto | aspecto という異なる表記を生んでしまった。
 新正書法による変更は語彙全体に関わる割合からしてきわめて僅かであるが、使用頻度の高い語も含まれ正書法の使用についてはきわめて保守的な力が加わるため移行には努力が必要であろう。いっぽうでポルトガル語圏において独自の正書法を実施して来たブラジルの正書法が統一によって一体化する利点は強調されるべきである。また協定書の精神によって語圏内で正書法の乖離が抑止されることになり、ポルトガル語の国際的ステータスの向上、語圏諸国でのコミュニケーション円滑化が期待されている。
 日本におけるポルトガル語教育界でも、協定発効を境に新正書法に準拠するようになっている。
 参考資料は理論・情報言語学研究所 ILTEC サイトにおいてほぼ体系的に参照できる。http://www.iltec.pt/
 またPORTO EDITORA のサイトにおいても20世紀から21世紀にわたる正書法の変遷について簡略にまとめられている。http://www.portoeditora.pt/acordo-ortografico/sobre


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